連載『ホンダ偏愛主義』。自他共に認めるホンダマニア・元Motor Magazine誌編集部員でフリーランスライターの河原良雄氏が、ホンダを愛するようになった理由を、自身の経験を元に紐解きます。第19回は「本田宗一郎さんの三つの宣言」です。(デジタル編集:A Little Honda編集部)

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本田宗一郎は言わずと知れたホンダの創始者である。戦後間もない1946年に本田技術研究所をスタートさせ、48年に本田技研工業を立ち上げる。50年代に入って本格オートバイのドリームE型、自転車に取り付けるカブF型をヒットさせ僅か5年で日本一のオートバイメーカーにする。

そして54年には「250ccのレーサーを仕立ててマン島TTレースに出て優勝する」と全社員に宣言する。宣言後、マン島をはじめヨーロッパのオートバイメーカーを視察。そこで目にしたのは大きな技術格差だった。

MVアグスタやNSUと言ったトップクラスはリッター100psをゆうに超えていたのである。ホンダのドリーム250は13psに過ぎなかったことを考えれば、その差は歴然だった。一方でホンダは58年にスーパーカブC100を世に送り出し、オートバイメーカーとしてはさらなる躍進を遂げる。。

マン島TTレースへの挑戦は59年から始まる。初年度は125ccクラスでチーム賞を獲得。60年からは125cc、250ccの2クラスに参戦。そしてマン島以降の世界ロードレース選手権にも参戦。そして61年には全11戦にエントリーした。

第1戦スペインは125㏄で優勝、第2戦西ドイツは日本人の高橋国光が250ccで優勝、第3戦フランスは125&250ccで優勝する。そして迎えた第4戦マン島では125&250ccで1~5位を独占。シリーズを終えてみれば18回の優勝、15回のコースレコードをマークし、世界グランプリを制覇する。その後、66年には50~500ccの5クラスすべてをホンダが占め完全制覇を成し遂げたのだった。

海外でのオートバイレースの活躍と同時進行で、62年には鈴鹿サーキットをオープンさせる。日本のモータースポーツの発展はここから始まったのだ。そして63年にはホンダ初の4輪車T360を、次いでS500を世に送り出す。共に4気筒DOHCとしていたあたりにホンダらしさを感じる。この時点でホンダはまだ創立15年に過ぎなかったのだ。

そんな中、宗一郎は61年には「F1で世界を目指す」と宣言。

ホンダが造り上げた60°V12DOHC48バルブの1.5Lは220ps/12000rpmと高出力で、ロータスに搭載の予定だったがシーズン直前にキャンセル。

画像: そんな中、宗一郎は61年には「F1で世界を目指す」と宣言。

ならばとエンジン横置きとした自前シャシで64年から挑戦し、65年の最終戦メキシコで初優勝。66年からF1は3LとなりホンダもV12を仕立てるが苦戦。67年のイタリアで優勝するも、これをもって第一期のF1挑戦は幕を閉じる。

この間、意外と知られていないがF2でホンダエンジンは大活躍している。

66年、ブラバムに搭載された1Lの4気筒DOHC16バルブは150ps/11000rpmを発揮。ライバルのコスワースをまったく寄せ付けず11戦を全戦優勝で飾る偉業を成し遂げているのだ。

画像1: この間、意外と知られていないがF2でホンダエンジンは大活躍している。
画像2: この間、意外と知られていないがF2でホンダエンジンは大活躍している。
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レースでの栄光と挫折を体験した宗一郎は71年に「CVCC(複合過流調速燃焼方式)をもって2年後にアメリカの排ガス規制、マスキー法をクリアする」と宣言。

世界的に見れば小メーカーだったホンダを一躍“世界のホンダ”に押し上げる。そして、CVCCが世に出た73年に社長を潔く引退。2代目はマン島挑戦時のチーム監督だった河島喜好が継いだ。

画像4: この間、意外と知られていないがF2でホンダエンジンは大活躍している。
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本田宗一郎は91年8月5日に世を去る。9月のお別れの会、笑顔の本田宗一郎の写真には「皆様のおかげで幸せな人生でした。どうもありがとう」と添えられていた。注:敬称略/参考:「本田宗一郎伝」(中部博著・三樹書房刊)

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