みなさんこんにちは。【教えて?ホンダ】コーナーも今回で3回目となります。ホンダについて、少しずつ知ることができていますか?さて、本日も新たにホンダの知識を増やしていきましょう。

この連載は、ホンダという会社や製品等の色々な一面を発見して、少しずつ(A Little♡)ホンダ(Honda)のことを知ってもらうコーナーです。
バイク・クルマ知識にド素人のわたくし(Akiko)が、ホンダに関する知りたいと思った些細な情報を二輪業界、四輪業界のスペシャリストをお迎えし、ホンダの歴史やカルチャー、テクノロジーのことなどを教えていただきます。

今回探っていきたいのは、“藤澤武夫”という人物について。みなさんはこの人物の名前を聞いたことがありますか?

「本田技研工業株式会社は本田宗一郎が立ち上げた会社」と考えるのが一般知識ですよね。つい一人で会社を支えてきたと思いがちですが、実はその陰で本田宗一郎を支える人物が存在しました。それがどうやら藤澤武夫という男なのだとか。

ずばり、藤澤武夫ってどんな人?また、本田宗一郎とはどういう関係?

あまり知られていないので、どんな人なのかすごく気になる!また、本田宗一郎さんとはどういう関係だったのかも知りたい。
ということで、今回もこのお方をお呼びして詳しく聞いてみましょう。教えて?宮崎さーん!

ハンセン・ブロディ組を超える最強タッグ!(※プヲタ以外の方、わかりにくい例えでスミマセン?)

え、ホンダファンは当たり前として、2輪・4輪好きで藤澤武夫を知らない人なんていないでしょ? 演劇好きがシェイクスピア知らないとか、法学を学ぶ学生が芦部信喜知らないとか、日本文学好きが川端康成を知らないとか、1980年代B級アイドルヲタクがスターボー知らないとか・・・そういうレベルの話ですよ(※最後のはちょっと自信ないです?)。・・・まぁ要するに、藤澤武夫のエピソードを紹介する原稿のための枕話・・・ということですよね。

画像: 本田宗一郎(左)と藤澤武夫・・・小さな企業だったホンダを、世界のホンダに育て上げた2人です。 www.honda.co.jp

本田宗一郎(左)と藤澤武夫・・・小さな企業だったホンダを、世界のホンダに育て上げた2人です。

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1910年11月10日、東京市小石川区(現、東京都文京区)に藤澤武夫は生まれました。藤澤は教師を目指していましたが、東京師範を受験するものの失敗。家族を養うために、筆耕屋(ひっこうや)=宛名書きを仕事にしたそうです。

1930年に徴兵され1年間を軍隊で過ごした後は再び筆耕屋生活に戻った藤澤が、初めて定職に就いたのは1934年のこと。鉄鋼材販売店のセールスマンをした藤澤はここでビジネスマンとしての才能を開花させます。店の主人が軍隊に召集されたときは藤澤が代わりに経営を担うほど、その実力を評価されていたそうです。

1939年、藤澤は将来の独立を考え、切削工具を製作する日本機工研究所を設立。しかし戦局の悪化で板橋の工場の機械を空襲から避難させるため福島へ疎開。戦後は復興のため建築用木材の需要が高まると読んだ藤澤は福島で製材業を始めることにしました。

そして1949年、藤澤は共通の知人の仲介で本田宗一郎と初めて会うことになります。なお、その当時藤澤は福島を引き払い、池袋で材木店を経営していました。42歳の本田と38歳の藤澤はたちまち意気投合し、その年の内に材木店を整理した藤澤は生まれたばかりの企業であるホンダに入社し、常務に就任します。

初対面で本田と藤澤は互いに相手を、自分に持っていないものを持っている・・・と看破したそうです。開発を担う本田、経営を担う藤澤・・・という戦後日本経済界の最強タッグは、こうして誕生しました。

数々のアイデアでホンダの危機を救う

1950年にホンダは東京営業所を設立しますが、ここが藤澤の本拠地となりました。当時のホンダは不況にあえぎ、従業員間では倒産も噂話にあがるレベルの苦しい時代にありました。しかし朝鮮戦争による"朝鮮特需"でホンダの経営もひと息つけることができたそうです。

藤澤のホンダでの業績を語るエピソードは枚挙にいとまがありませんが、その最初のひとつは1952年のF型カブ(原付用エンジン)を売り出す際の「DM戦略」です。

「それからいよいよ、全国5万軒の自転車店にダイレクトメール(以降、DM)を送るという戦略を実行したわけです。あのDMの文章は、藤澤さんが書かれたんですが、名文でしたね。しかも非常に用意周到。第1弾、第2弾と、受け取る相手の心理を読み切った、巧みなDMでした。
『あなた方のご先祖は、日露戦争の後、勇気をもって輸入自転車を売る決心をされた。それが今日のあなたのご商売です。ところが今、お客さまはエンジンの付いたものを求めている。そのエンジンをHondaがつくりました。興味がおありなら、ご返事ください』
と、第1弾目がこんな内容です。すると3万軒以上から『関心あり!』の返事が来たのです」(川島)。

ものつくりする能力はあっても、それを売る能力が弱かった当時のホンダから脱却するため、藤澤は全国の既存自転車店の存在に着目しました。そこで筆耕屋の外注ほか、従業員総出の手書きDMを全国5万軒の自転車屋に送り、F型カブの販売網を開拓したのです・・・。

続いて藤澤は、本田宗一郎をうながして「マン島TTレース出場宣言」を1954年に発表させます。

画像: マン島TTレース出場宣言(社内向け版)。本田宗一郎の意をくんで、藤澤武夫が自ら文案を練ったそうです。 www.honda.co.jp

マン島TTレース出場宣言(社内向け版)。本田宗一郎の意をくんで、藤澤武夫が自ら文案を練ったそうです。

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この年、ホンダはブラジルのサンパウロ市政400年記念レースで初の海外モータースポーツ参戦を果たし、見事完走をしています。しかし、結果は大差の13位で、欧州の先進的なレーシングマシンとホンダ製モーターサイクルの実力差は雲泥の差と言えるものでした。

それにもかかわらず、当時世界最高峰のロードレースとして名高いマン島TTに参戦する・・・と公表することは、年収200万円以下の非イケメンが、「俺、新垣結衣とケッコンする!」と全世界に宣言するくらい? 無謀なことに聞こえたでしょう(※ちょっと例えがヘンですね)。

この宣言文の直後のホンダは初のスクーターのジュノオK型が販売面で大失敗。人気商品のF型カブも陳腐化で売れ行きが低迷。新型ドリーム4EとベンリイJ型はクレーム続出・・・と、非常に厳しい状況に直面することになります。

さらに海外から購入した最新鋭の工作機械の支払い・・・という借金も莫大だったホンダでしたが、藤澤はマン島TTレース出場宣言を現実のものにするため、本田宗一郎を支え続けました。

経営が厳しいときに真っ先にレース活動をやめさせる・・・のが経営者の常道となって久しいのが昨今ですが、マン島TTレースを制覇する世界一の技術を持つメーカーになれなければ日本一のメーカーにすらなれないという本田宗一郎の考えに藤澤は心から同意し、レース活動を経営者判断として推し進めたわけです。

画像: 1959年のマン島TT初遠征。125ccクラス6位完走したホンダRC142と谷口尚巳(車上)。 www.honda.co.jp

1959年のマン島TT初遠征。125ccクラス6位完走したホンダRC142と谷口尚巳(車上)。

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そして1955年の「全日本オートバイ耐久ロードレース」以降、ホンダは浅間高原を舞台とする国内レースで技術を研鑽し、1959年にはついにマン島TT出場を果たします。この時は125ccクラス6位が最高成績でしたが、わずか3年目の1961年にホンダはマン島TT含む当時の世界ロードレースGPで、125、250ccクラスの年間王者という地位に就きます。

この東洋の奇跡ともいえる業績を成し遂げたホンダは、その技術力を背景に世界で愛されるモーターサイクルの数々を開発。レースの実績と販売台数で、1960年代に名実ともに世界一の2輪メーカーになりました。なお1962年に開業する日本初の本格舗装コースの鈴鹿サーキットも、本田宗一郎の意をくんだ藤澤がプロジェクトを設立・推進させて建設されたもののひとつです。

1962年に行われた鈴鹿サーキットのこけら落としのレースには、2日間共に10万人ずつの入場者が押し寄せました。どれだけ多くの人が、本格的な舗装ロードレース用サーキットの誕生を待ちわびていたかを示す数字と言えるでしょう。

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世の中を驚かせた、2人の華麗なる引退

創業時から本田宗一郎は常に「世界一になる」ことを標榜していました。しかし1950年代に幾度も経営危機の状態を体験したときには、勝気な本田宗一郎もそれは儚い夢になるか・・・と弱気になったこともあるのではないでしょうか? これは推察に過ぎませんが、もしそうだったとしたら、本田宗一郎にとって「世界一になる」という目標をブレることなく一緒に目指し、支えてくれた経営者の藤澤は欠かすことのできない相棒だったに違いないでしょう。

1972年、社員の創意工夫の発表の場でもある「オールホンダ・アイデアコンテスト」会場にて、笑顔を見せる本田宗一郎(左)と藤澤武夫。

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ホンダ創立25周年を迎えた1973年の10月、社長の本田宗一郎と副社長の藤澤武夫は共に退任します。

1973年3月、藤澤は、
「おれは今期限りで辞めるよ。本田社長に、そう伝えてくれ」
と西田に命じた。
本田はちょうど中国へ海外出張中だった。藤澤のこうした意向は、正式に本田と相談をした結果のものではなかった。西田は、羽田空港で本田の帰国を待ち、その場で藤澤の辞意を伝えた。
本田にとっては予期しないことだったが、しばらく考えてから本田も、
「おれは藤澤武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」
と、西田に告げたのだった。

1950年代半ばから、早くも藤澤は"本田・藤澤"後のホンダのあり方を考え、次世代の経営陣を育てることに腐心していたそうです。当時本田65歳、藤澤は61歳。そして新社長の河島喜好は45歳という異例の若さ・・・年老いてからも地位にしがみついたり、当たり前のように世襲を行う経営者が珍しくない世の中で、まだ現役として十分活躍できる年齢の2人がやめたことは世間を驚かせました。

次のホンダの体制の道筋を作った、と見極めた藤澤は一線を退くことを決意し、藤澤が辞めるのであれば自分も退くと本田宗一郎は即座に判断しました。ホンダ創世記からの偉人2人は、常にお互いの考えることを、語り合うことがなくても理解しあっていたのでしょう。

1973年8月の『退陣のごあいさつ』の中で触れられている、当時の藤澤と本田のやりとりをご紹介することで、この稿の結びとしたいと思います。ここで藤澤武夫のことを語り尽くしたとは言えませんが、藤澤武夫という人物に興味を持った方はぜひ、「松明は自分の手で」という氏の著作をお読みになってみてください。

――ここへ来いよ、と(本田さんに)目で知らされたので、一緒に連れ立った。
「まあまあだな」
と言われた。
「そう、まあまあさ」
と答えた。
「幸せだったな」
と言われた。
「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
と言った私に、
「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」
とのことで引退の話は終わりました――。

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